2005. 10. 23.の説教より

「 心を騒がせるな 」
ヨハネによる福音書 14章1−3節

 先ほど、司会者の方に読んでいただきましたように、このところで、イエス様は「心を騒がせるな」と語っておられます。語っておられるというよりは、イエス様は、命じておられるわけです。この1節だけでなく、27節でも、「心を騒がせるな」とのイエス様の言葉が出てきますので、まさに、このところから27節までのところは、「心を騒がせるな」ということ枠組みの中で語られていると言うことができます。逆に言えば、「心を騒がせる」ことなくしてはいられない者として、わたしたちはあるということかもしれません。実際、わたしたちは、ほんのちょっとしたことで動揺し、心を騒がせてしまうのではないでしょうか。心を騒がせることなく、穏やかな気持ちでいることなど、わたしたちには、そうそうできないのではないでしょうか。
 マタイによる福音書の5章以下には、イエス様が山の上で語られた、いわゆる山上の説教が語られていますが、その6章の終わりのところで、イエス様が語られた有名な「思い悩むな」との言葉が語られていますが、その「思い悩むな」との言葉に対応するのが、ここでの「心を騒がせるな」とのイエス様の言葉となるのではないかと思われるのです。6章25節ですが、そのところで、イエス様は、このように語っています。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」とです。「思い悩むな」と言われてもとなるのが、同じくわたしたちの現実ではないでしょうか。年齢も、地位も、学歴も、このことの前には関係ないのではないでしょうか。考え方によっては、「思い悩むな」と言われても「思い悩んでしまう」のが、「心を騒がせるな」と言われても「心を騒がせてしまう」からこそ、人間だと言えるのかもしれません。
 しかし、そうしたわたしたちではありますが、僅かでも神様にお委ねすることができたとしたらどうでしょうか。「思い悩むことから」、「思い悩むことから」解放されるのではないでしょうか。逆に言えば、神様にお委ねすることができないから、全部、自分で抱え込んでしまっているから、自分の力だけでなんとかしなければならないと考えているから、「思い悩むこと」に、「心を騒がせること」になってしまっているのかもしれません。それでなくても、わたしたちは、先々のことを考えては、「思い悩むこと」に、「心を騒がせること」になっているからです。どういうわけか、先々のことを考えはじめますと、夢や希望をとはならず、不安や心配の種となることばかりが出てきてといことになってしまうことが多いわけです。そんなときに、今は、自分としてできることを、やれることをやって、あとは神様にお委ねすることが、お任せすることができるのと、できないのとでは、ほんとうに大きな違いが出てくるのではないでしょうか。また、よく言われますように、神様にお委ねすることが、お任せすることができるからこそ、わたしたちは、「思い悩むこと」から、「心を騒がせること」から解放されるというだけでなく、その持っている力を発揮することもできるわけです。そういう意味では、何かをみんなでやろうとするときに、不安や心配の種となることについても、ある程度は考慮しておくために、話し合っておくことも必要ではありますが、ただ必要以上に、不確定なものでしかない不安や心配の種となることを、ことさら強調するというのも、好ましいことではないのかもしれません。不確定なものでしかない不安や心配の種となることが、ことさら強調されるところでは、神様にお委ねすることなど、お任せすることなど、どこかに行ってしまっていることが多いからです。
 しかし、イエス様は、「心を騒がせるな。」と命じておられるだけでなく、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」とも命じておられるわけです。「心を騒がせるな。」ということと共に、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ということが語られているのは、どうしてなのか、なぜなのか、ということを考えてみますとき、神様を信じることなくして、また、イエス様を信じることなくしては、「心を騒がせないでいること」など、わたしたちにはできないからではないでしょうか。しかも、その場合の「信じる」ことと言いますのは、ただただ神様を信ずる、信じて疑わないという意味で、信じるということではなくて、まさに、神様にお委ねする、お任せするあり方と密接に結びついているものとしての「信ずる」ということではないかと考えられるのです。よく、信仰という言葉を、「信頼」という言葉に置き換えて言うことがありますが、この場合の「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」ということの中身と言いますのも、神様に信頼して、心から神様にお委ねする、お任せすることそのものではないでしょうか。このことも逆に言いますと、神様に信頼して、イエス様に信頼して、お委ねすることが、お任せすることができないから、「心を騒がせてしまっている」、「心を騒がせてしまっている」のかもしれません。その意味では、「神を信じることも。そして、イエス様を信じることも」、わたしたちにとりましても、ほんとうは難しいことなのかもしれません。わたしたちのために十字架にかかってくださったイエス様を信ずることはできても、神様に信頼して、イエス様に信頼して、お委ねすることが、お任せすることができないところを持っているからです。このことだけはお委ねすることが、お任せすることができないということの一つや二つはあるのではないでしょうか。おかしいと言えば、おかしいことなのかもしれませんが、どうしてもこれだけは、このことだけはと思っていることが、神様に、イエス様にお委ねすることとは、お任せすることとは、分けて考えてしまっているところがあるわけです。
 そうした、神様に、イエス様にお委ねしきれない、お任せしきれないところを持っている弟子たちに対して、そして、わたしたちに対して、イエス様は、この語られたのでした。2節・3節ですが、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」とであります。イエス様は、この言葉によっていったい何を語ろうとしておられるのでしょうか。神様に、イエス様にお委ねしきれない、お任せしきれないところを持っている弟子たちに対して、そして、わたしたちに対して、どのような意図があって、イエス様は、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と言われているのでしょうか。普通、この聖書の箇所が読まれるときと言いますのは、通常の礼拝においてというよりは、葬儀などにおいて、愛する者を失ったことで、少なからず、心を乱してしまっていることに対して、イエス様が語られた言葉として、慰めの言葉として聞くこととなっているのではないかと思われますが、そうだからと言って、必ずしも、葬儀などの際に読まれるための言葉として、イエス様は語っておられるのではなく、どのようなときにおいても、わたしたちをしつかりと受け止めてくださろうとしておられるお方として、神様が、そして、イエス様がいてくださることに、わたしたちの目を向けさせるために、さらに言いますならば、わたしたちのことをどのようなときにも受け入れてくださる神様が、イエス様がおられることを語られるために、イエス様は、そのような言い方で語られたのではないかと考えられるのです。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。」と語られることによってです。言い換えれば、わたしたちには、居場所があるということです。そうした神様にあっては、「もしなければ」ということなどあるはずなどないわけですが、もし、かりになかったとしても、あなたがたのために、そのときには場所を用意しに行くというわけです。ですから、間違いなく、あなたがたのための場所はあるとの約束が、保証が、そこにはあるということができるわけです。
 しかも、イエス様は、「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と語っておられるのです。この言い方は、ヨハネによる福音書にだけにしかない言い方とされておりまして、ギリシア語で言うところの「パラクレートス」ということになります。慰める人とか、励ます人とかいった意味を持っている言葉で、「聖霊」をあらわす言葉されていますので、イエス様は、「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。」と語られることで、わたしたちを助け、そして、励ましてくださる「聖霊」を、神様に、イエス様にお委ねしきれない、お任せしきれないところを持っているわたしたちに対して、与えるとの約束をも、そのところで語ってくださっているということが考えられるわけです。つまり、イエス様は、どうしても、神様に、イエス様にお委ねしきれない、お任せしきれないところを持っているわたしたちに対して、それがために、「心を騒がせ」「思い悩む」者となってしまっているわたしたちに対して、二重三重に、少しでも、神様の方に心を向けて、お委ねしようとするならば、お任せしようとするところがあるならば、わたしたちを受け入れてくださり、助け励ましてくださるということを語って、わたしたちの心を神様のほうに、イエス様のほうに向けようとされておられるのではないかと考えられるのです。ほんの少しだけでも、どのようなときでも、また、どのようなことかせらでも、わたしたちの心を神様に向けるものでありたいと思うものです。